儚きにこだわるは愚

孫の一人が今春、高校入学する。
本人の第一希望に推薦で合格し、周囲を早々に安堵させてくれた。中学3年間の心身の成長目覚ましく、立派な青年になったものだと感慨深い。幼い時は、体が小さく穏やかすぎるのがかえって心配だったが、幸い身長も人並みに伸び、贔屓目ながら人格、素質ともに申し分のない子に育ってくれた。

これが内孫であれば、夫はさぞ安心したことだろう。
嫁ぎ先であるここは、なぜか後継ぎに恵まれない。夫を含む私たちの兄弟は皆、判で押したように子供2か3人おり、それぞれ男の子を授かった。娘や姪たちは順調に嫁ぐ、その先で皆男の子を授かっている。対して里にあたる我々の息子たちは皆結婚こそしたが、我が愚息の娘一人を除いて皆 子供に恵まれていない。

一応、それなりの旧家ではあるので、ジジババが寄る度に後継ぎの話になる。
当然、我が家の女孫に家を継いでもらいたい、という話である。夫は昭和一桁生まれ。家、墓に事の他うるさい。息子が産まれた日は破顔一笑で授業に出て、「あの無表情な先生がどうしたのかと思った」と後日同僚の方から聞いた。今では、唯一の跡取り候補である幼稚園児に『この家を継いでくれよ。無縁仏にはしないでくれよ。』と半ば懇願している。

「今のご時世、男の子だからって安心できないわよ。結婚はおろか、就職しないのは男に多いって聞くでしょ」と女連中は言う。

相撲部屋などを見れば、後継ぎが女のほうが可能性が高くなる。よりよい「種」を選んで迎えることができるからだ。そういう意味では、今の天皇家は安泰かもしれない。

私個人で言えば、本心はどちらでもよい。どんなに固執しても絶える時は絶える。昨年の東北のような大きな災害でもあれば、家だの、血筋だの人間の細かいこだわりを一瞬にして消え去ってしまう。仏壇に向かい、彼岸の後片付けをしながら、先祖には申し訳ないのかもしれないことをぼんやり考えていた。